私がパーソナルトレーナーになった理由
私には2人の父親がいます。
1人は血のつながりのある実の父、もう1人は私を育ててくれた父です。
東京都世田谷区で、私は生を授かり、両親と、兄と姉、祖母の6人家族、何不自由なく暮らしていましたが、私が2歳の時に、両親が離婚、母は子供3人を抱え、父から逃げるようにして群馬県伊勢崎市にたどり着き、家族4人での生活がスタートしました。
離婚も成立しない中、公的援助も受けられず、お金もない、身寄りもない、家具もない、それはそれは困難な家庭でした。
母は子供3人を育てるべく、昼の仕事の傍、夕方は、居酒屋でアルバイト、夜中はコンビニの夜勤、そして家事育児。こんな母を見ていて、未就学児だった私は、幼ながらに母はいつか大病を煩うに違いないと感じ、将来母を助けられるような仕事につこうと決意したのを今でも覚えています。
時は過ぎ、小学校高学年のころ、突然私の目の前に育ての父が現れたのです。
彼は懸命に私と向き合ってくれ、私もすんなり打ち解けて、仲を深めていきました。
そして彼は、勉強は唯一無二の資産だと言って、私を進学塾に通わせてくれたのです。
そのおかげで、私は前橋高校に進学出来ました。
後から聞けばそのお金は、昼の仕事とは別にお弁当屋さんのアルバイトで稼いだお金を当ててくれたとのことです。本当に感謝しかありません。
しかし、その感謝の気持ちを親孝行という形で伝えることなく、彼はこの世を去ってしまいました。
私が高校2年生の頃です。死因は拡張性心筋症。心臓の機能が低下し、心筋がペラペラになってしまうことで心室が拡張し、心不全を引き起こす病態です。
今振り返れば、指の爪は丸く膨れてバチ状指、足はうっ血してむくんでおり、いつも咳をしていました。食事はアルバイト先の揚げ物弁当ばかり。運動なんか全くしませんでした。
症状に不安を覚えて近所の内科を受診、そこから近所の循環器内科に紹介、最後には大学病院で検査をして初めて診断を受け入院、その頃には、病状はかなり進行し、入院から3ヶ月で帰らぬ人となりました。診察の過程では耳タコのように「食事に気をつけて運動しましょう」と言われたそうです。
医療技術は、日進月歩で進化しており、日本の医療は世界でもトップレベルに位置します。患者の命に日々向き合う多くの医療人たちの懸命なサポートによって、日々多くの命が救われ、日本は世界トップレベルの長寿大国となりました。
しかしながらその高い技術の恩恵を受けられる人は、あくまでも現在の保険制度のスクリーニングによって「診断名」を獲得し、治療を許された一部の方のみ。
それ以外の現在健康で病気になりたくないと願う人には、「食事に気をつけて運動しましょう」としかアドバイスされないなんて。
もし私の育ての父が、診断を受けるもっともっと前から大学病院のような施設で知識ある指導者のもと、適切な食事指導と心臓リハビリテーションを受けられていたら、彼はまだこの世に存在していたかも知れません。そして私も親孝行がしっかり果たせたことでしょう。
日本の中にはこうしたリハビリ施設は数多く存在するのに、病気になってからでないと足を踏み入れることすら許されません。
これは心臓に限った話ではなく、がんや糖尿病、腰痛や膝痛、薄毛や近眼、認知症まで、ありとあらゆる治療施設はあるのに、症状が起こる前に予防的介入を受けられる施設はほとんどありません。
それがないのであれば、私が作ろうと。それも、必要な知識や技術、ライセンスはその都度スポットで専門家や有資格者に協力をし、各個人の課題や症状に合わせた高品質な介入を提供しようと考えたのです。
私が当時知る限り、それをこなせる一番中立的な立場がトレーナーでした。単なるムキムキマッチョになるための施設ではなく、人を病気にさせないジムを作りたい。
それがDROITの設立の想いであり、私がトレーナーとなった理由です。
先日3月23日は私の母の誕生日でした。母は当店の管理栄養士の食事指導を受け、二型糖尿病の境界型を克服。毎年の健康診断でもとても良い成績を修めております。
今は膝の痛みを解消すべく、定期的にDROITに通ってもらっております。
トレーナーとしてのキャリアは10年目を迎えました。今では大変多くの方に、予防的介入の輪が広がってきました。この考えが、必要な人にもっと届けられるよう、さらに自己を磨き、介入の質を高めていきたいと考えております。